【質問】
 戦国以降の日本の合戦では,不意打ちだろうが何だろうが勝てばいい,という気風があったと思います.(桶狭間が好例)
 西洋では,戦いの前に,お互いにエールを送る,とまではいかなくても,何か礼儀を尽すような伝統はあったのですか?
 「ラストサムライ」終盤の合戦前のシーンで,これは日本では有り得ないな,というさわやかなやり取りがありましたが,あれは西洋人の固定観念ですか?


 【回答】
 中世絶頂期の戦争では,戦争そのものが儀礼化してた.
 お互いに参加兵力,日時,陣形を手紙で事前に教えあい,ウソ書いたりするのは「騎士道にもとる最低行為」とか罵られたり.
 戦闘そのものも双方から代表者を数人出して,その人たちが斬り合ったら戦争は終わった.

 中には片方が
「すまん,ちょっと金が足りなくてさ,事前に通知した兵力が揃えられなかったんだわ」
と謝り,謝られた方が
「いやいや,それでも戦場に赴いて来てくれたのは光栄の極み」
と双方手を取り合ってお終い,という訳の解らない戦争?すらあった.

 ガチで殺し合っても損害が大きいだけで,何も得る者がなかったので,そういう風になったわけだが.

 逆に同じ王の臣下なのに,仲の悪い人同士で訓練中,模擬戦やったら双方興奮して本気になってしまい,死傷者続出・・・というこれまた意味不明な事態になったりもした.
【質問】
 そんなに騎兵が有用なら,なぜモンゴル帝国が台頭する前に諸帝国が騎兵を強化・活用しなかったの?

 【回答】
 騎兵も弓兵も,思いっきり専門職だ.
 若い頃からそれ専門で訓練して初めてモノになる.
 そんな兵士を千人揃えるだけでも,国庫はスッカラカン.
 諸帝国は,騎兵を強化「しなかった」のではなく,できなかったのだ.

 農耕国では騎兵ってのはカネを生まない.畑の役には立たん.
 結果,純粋に兵隊として枠を作らなきゃいかん.
 馬牧場もいる.これはカネを食うばかりで,生み出さない.
 だから,持てば持つほど国の財政を圧迫する.
 古代文明国が滅んだのは,軍事支出がオーバーして破綻したケースが多いらしい.

 それに対してモンゴルでは,馬に乗るのも弓をつがえるのも生活の一部だ.
 モンゴルは騎兵で羊の群れを管理し,広大な土地を動き回る.狩猟もする.カネを生む.
 持てば持つほど豊かになる.
 有事になれば,余裕で万単位の弓騎兵が揃えられる.

 つまり,「経済構造の違い」と言える.
 だから小集団でそれなりの経済力と軍備を保持できる遊牧民は,なかなか纏まれない.
 冒頓単于やジンギスカンが偉大とされるのは,この辺の事情ではないかな.

 【質問】
 モンゴル兵の弓なんか,重装騎兵に弾かれてしまうんじゃないの?

 【回答】
 板金鎧に剣とかで傷をつけるのは難しいが,威力の高い弓はフツーに鎧も貫きますんで.
 ぶっちゃけ「フルプレートが強い」なんてのは,中世ファンタジーが流行した結果でしかないぞ.
 クロスボウなんかの機械弓はもちろん,高高度から落下する重い矢尻は鎧を貫く.
 基本的には遠距離攻撃最強.
 三国志でも戦国でも死因のほとんどは弓矢.
 日本でも,ある合戦の戦死者の記録があって,それによれば9割が弓矢,1割が落馬その他で死んでいたそうだ.

 誰が殺したかわからない(戦功をアピールできない),騎士は弓使いを(卑怯だと)見下していた,などの理由であんまりヨーロッパでは弓は流行らなかった.
 一応,クロスボウは身分の低い兵士が前列で使ったが,連射性が悪かった.
 長弓は連射性に富むものの,訓練が面倒で,そんなプロを育成・雇用する余裕はあまりなかった.

 一方,生まれて以来ずっと馬と長弓と一緒に生活してる騎馬民族.
 そりゃ,野戦では勝って当然というか.
 その上,モンゴル騎兵の複合弓(ゲームとかではコンポジットボウとかって良く出る)は,馬上で取り回しやすい小型ながら,矢の飛ぶ強さを決める,張力はイギリス長弓兵よりも上.
 で,単純に横に撃つだけなら
クロスボウ>>越えられない壁>>複合弓.
 そもそもの発射する力が違う.

 イギリス長弓部隊の弓はフランス重装騎兵の鎧をも貫いた.
 問題はその撃ち方で,イギリス軍は相手の突撃を防ぐ柱を地面に立てて防御陣地を作った後,弓を相手の軍の上に放ち,矢の雨として降らせ,重力で加速された重い矢尻は鎧をも貫いた.

 モンゴル軍がそんな撃ち方をしたかどうかについて,確実な記述を見たことはない(調べてない).
 だから,モンゴル軍の放った矢が重装甲を貫いたかどうかは知らない.
 ただ,モンゴル軍が征西した当時はまだプレートアーマーじゃなくて,鎖帷子みたいなもんだったから,そんな撃ち方しなくても貫いたろうし.矢には毒も塗ってあったからかすり傷でも致命傷にできたし.まぁ少なくとも理論的には可能なことは確か.

 モンゴル式軍団とフルプレート軍団が激突した戦闘でもないと,確実なことはわかんないけど.

 【質問】
 元の日本侵攻失敗の原因は?

 【回答】
戦略面

 南宋を生かしておいたため,日本攻略に全力をそそげなかった(一次)
 日本側が使者を切り殺して挑発したため,充分な準備期間を置けなかった(二次)

戦術面

 起伏が激しく平野部が狭い国土のため,モンゴル騎兵得意の機動戦術が封じられた.
 二次侵攻の時は,さらに防塁まで築かれた.
 結局どの戦線でもモンゴル軍は橋頭堡を確保し切れ無かった.
 予備兵力と地の利に勝る鎌倉武士団は,昼夜を問わず戦いを挑んだ.

総合

 結局は,機動力を封じられて補給に難が有る軽騎兵と,地の利および兵器の扱いに長けた,補給面の不安が無い重装歩兵の戦い.
 これでは後者が有利で無いほうが不思議.

 【質問】
 蒙古騎兵はなぜ日本では活躍できなかったの?

 【回答】
 馬を世話すると分かるが,水は一日も欠かせない.しかも大量に.
 カイバもそう.
 運動も必要だ.
 これらを欠かすと,すぐに馬は病気になる.
 狭い船の中で,しかも熱気のある環境だとすぐにくたばる.
 馬は暑いのが苦手だからね.
 江南の軍の渡来では,あそこから馬を運んでくるのは,上記の理由を持って不可能といってよかった.(馬が途中でへばってしまう).
 したがって長途航海に馬を運搬するのが至難だというのは,容易に想像がつく.

 また元寇の間,元軍は船上で日常生活?を送っていたと思える.
 馬を帯同していたら食餌等の問題で,船上生活は不可能だろう.

 仮にそれらをなんとかできたとしても,玄海灘なら2日くらいでなんとか越えられるが,日本に到着したら即刻,馬を下船させ,水やカイバを与えなければならない.
 幸いに日本は清流の国なので,水は豊富だが,与える牧草は供給に苦労するだろう.
 モンゴルが大陸を制覇したような,機動的な騎馬戦を日本国土で展開するのは不可能といっていい.

 事実,蒙古絵を見ても,馬に乗った蒙古兵は描かれてない.
 蒙古兵の力は日本では発揮することができなかった.

 したがって,モンゴル軽騎兵ではなく,散開歩兵であったと思われる,
 これでは,弓術に秀でた鎌倉武士の騎馬隊に対し,充分な攻勢を示せず,橋頭堡を確保するどころか,慣れぬ船上生活に押し込められたまま消耗してしまったのだろう.

 要するに,日本侵攻には無理があったということです.

 【質問】
 森鴎外と脚気・・・って,いったい戦争に何の関係があるんですか?

 【回答】
 第二軍軍医部長(のち,1907年10月に陸軍軍医総監)だった鴎外が脚気病原菌説に拘泥し,兵に白米を食わせつづけたため,脚気を蔓延させたという一種の薬害事件 in 日露戦争

 日露戦争中,兵士の脚気が深刻な問題となった.
 原因は主食が白米で,ビタミンB1が不足していたからだ.
 その事態に,軍は古くからの経験則より玄米食を制式採用しようとした.
 しかし,ドイツ医学を学び,脚気細菌原因説をとなえる森鴎外はその案に猛反対.
 結果日本軍は露西亜でいらぬ犠牲を増やすことになったとさ.

「日露戦争中,森鴎外はどんなロシアの将軍よりたくさんの日本兵を殺している」
という話すらある.

 もっとも,脚気は鴎外だけに罪があるわけではなく,白米を基本的糧食とすることを望んだ兵隊にも,多少の責任があると思う.
 確か,江戸時代の一人扶持を精米したものが,陸軍の一日の支給量と一致していたと思う.

 白米が腹いっぱい食えることが軍のウリの一つだったしな.

 もちろん鴎外が,脚気の話のみで評価してしまうには惜しい人物であることに変わりはない.

軍事板

 上記の経緯について,宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.88-89では,以下のように説明されている.

 明治から大正にかけて,脚気は死亡原因の上位を常に占めており,年間2万人以上の犠牲者を出していた.

 政府にとりわけ頭を抱えさせたのは,兵士の罹病だった.
 特に軍艦乗組員に多発し,酷いときには長期航海中,半数が倒れて操艦不能になるときもあった.
 死亡者もそうとうに多かった.

 帝国海軍の発祥の頃,なぜ日本の軍艦からばかり脚気患者が続発するのだろうかと疑ったのは,海軍軍医総監高木兼寛である.
 イギリス水兵は脚気になどかからないのである.
 彼は,これは兵食に何か欠陥があるのではないかと考え,実験的に一部軍艦にパンと肉食を与えてみたら,患者が激減するのを見た.
 しかし,パンは農村出身の水兵が食習慣から嫌がるので,彼は小麦のパンが有効なら大麦でも良いのではないかと考え,麦飯を試してみた.
 脚気患者を海軍からほぼ一掃することに成功したこの人体実験は,むろんビタミンなどというものを予想して行ったのではないが,その鮮やかさによって,国際的にも今なお食料史上の人物として,高木の名が記録されている.

 ところが,これに反して陸軍は麦飯を採用しなかったのである.
 陸,海軍の維持の張り合いというのはこの時代からあったらしいが,その理由は,一説に洋行帰りの森林太郎(鴎外)一等陸軍軍医の反対による,とされている.
 森はベルリンでカロリー学説を学んできていて,米のカロリーのほうが麦より高いと主張したというのである.
 おかげで日露戦争中,最後の奉天大会戦で気がついて麦飯に転換するまで,戦病者のうち半数という脚気患者を出してしまい,これは森の黒星という事になるかもしれない.
 しかし,もしそうであるなら,この対立は両者の背景を探ってみると,興味が深い.
 髙木がイギリスで医学を学んで経験主義を身につけて帰り,実行に移したのに対し,森が「脚気の原因の究明が先決」という,ドイツ的な本質主義を体していたという事になるだろう.

消印所沢

 ついでに言うと,森鴎外は細菌説の主張を押し通すため,当時の医学界における人脈をフル動員して,高木兼寛軍医の意見を受け入れさせないように学界などで猛烈な反対論陣を張っています.
 その運動は,オリザニン発見後まで続いたほどです..
 人によっては,高木兼寛軍医を日本最初のリアル日本医学会の犠牲者とも言うほどです.
 海軍での採用も,明治天皇の助力がなければ,どうなっていたことやら・・・.

 ただ,森鴎外の主張もわからなくもないです.当時の栄養素はたんぱく質と炭水化物,脂質,のバランスだけに集約され,1910年に鈴木梅太郎がオリザニンを発見するまで,それ以外の栄養価は存在しないと思われていた時代ですので.高木軍医の根拠であった体のバランスを重視する漢方医学は,独逸医学にどっぷり染まった森鴎外には受け入れられなかったんでしょうねぇ.
 まぁそれでも,日露戦争前の1897年にオランダのエイクマンが脚気を予防する未知の物質の存在を証明していたのですから,日露戦争まで脚気細菌起源説にこだわった森鴎外は老害といっても差し支えないでしょうね.

 ただ,高木兼寛軍医は,後にその功績で森鴎外がなれなかった華族に任命されましたので,最後は報われたかもしれません.

 ちなみにトリビアになりますが,麦飯やパンでほぼ発生が亡くなっていた脚気ではありますが,麦飯は消化吸収がとても悪く,一度発症したら直りにくい状況には変わらず患者は常に一定数いました.
 オリザニン抽出物も値段が高く,吸収しにくい弱点もあり,効果はあったものの根絶にはいたりませんでした.
 結局,脚気対策は玄米食ではなく,白米に押し麦を混ぜることで解決したそうです.
 玄米だと戦陣食として吸収が悪く,緊急時には白米だけにできる麦のほうが都合が良かったようです.
 この辺の詳細は,吉村昭『白い航跡』上・下(講談社文庫,1994年)が安くて詳しいかと.

 日本で脚気が完全に根絶されたのは,なんと昭和29年です.
 戦前からビタミンB1の量産研究を続けていた武田薬品が,ビタミンB1を弱った胃腸でも吸収できる誘導体の形で,低価格で量産する技術を確立させたことを受けてアリナミンを販売,初めて脚気は根絶されました.
 ということは,警察予備隊が海洋船舶を持っていたら脚気の悪夢再びだった可能性も多少残っていたのかも.

うみゅ in FAQ BBS

 もっとも,ビタミン問題は日本軍を不利にばかりしたわけではない.
 こんなエピソードが残っているという.

 ビタミンCの発見の後,鈴木〔梅太郎〕は言ったという.
「日露戦争で旅順が陥落したのは,ロシア軍は壊血病に悩まされたためで,もしビタミンCのことが分かっていたら,大豆はたくさんあるはずだから,それでもやしを作ればいいわけだ.
 そうなったら,世界の情勢は変わっていた」

――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.95
 【質問】
 バスティーユにはガチホモも収監されていたそうですが,そもそもなんでパリ市民はガチホモを救出しようとしたのでしょうか?

 【回答】
 フランス革命前夜どころか,同性愛が犯罪とみなされる国は今もある.

 バスティーユ La Bastille には武器があったので,それを奪うのが襲った群集の目的だった.
 当時キナくさくなっていたパリでは,軍隊が集められていた.
 一方,国民議会勢力は,議会を継続するとか球技場で誓ってみたのはいいものの,自分たちを解散させるために国王の軍隊が襲ってくると言う噂が流れていた.
 それに抵抗してカミーユ・デムーランが「市民よ,武器を取れ!」と演説する.
 びびっていたパリ市民は,それに乗せられて,廃兵院という退役兵の施設を襲って大量の銃や砲を手に入れるけど,肝心の弾薬がなくて使い物にならなかった.

 そこに,バスティーユ要塞に大量の弾薬が保管されているという噂が流れてくる.
 バスティーユはルイ14世の代からある要塞で,当時の要塞は堅固で兵を置いておけるから政治犯用の監獄としても使われていた.
 だが革命の時には既に利用されなくなっていって,昔からの弾薬はあるくせに防備は甘い.
 市民はそこに目をつけて襲撃した.
 彼らはネッケル罷免の知らせに憤激しており,すでに興奮状態だった.
 交渉の間にも,バスティーユ要塞前には人が増え,興奮状態はさらに増す.
 やがて男が2人,塀を乗り越えて侵入し,第1の跳ね橋を落としたことで,群集が中庭になだれ込み,襲撃が始まった.

 バスティーユには政治犯は一人もいなかった.
 襲撃当時中にいた囚人はたった7人.
 うち4人は文書偽造犯,2人は狂人.非行貴族1人.

 そして,サド侯爵がたまたま襲撃数日前までそこにいたもんだから,フリーメイソンの陰謀論みたいな話が後に湧いてくることに.

 ちなみにサド侯爵はただの変態だと思われてるけど,実際は啓蒙主義思潮に影響されてて,絶対王政下のキリスト教モラルへの反発の意味合いが強い.
 今風に言えば言論の自由をアピールするために,あえて過激なことを書いてる感じ.
 サドとは文学的なレベルが全然違うけど,フランス革命期の革命家はつまらない詩とかエロ小説とか書いてる奴がかなり多い.

 バスティーユ襲撃の歴史的重要性は,それが初の民衆による武力蜂起であり,この一件によって革命の火蓋が切って落とされたという点にあるのであって,バスティーユ牢獄そのものが重要なわけじゃないのよね.
 【質問】
 フランス革命前夜のフランスの国家財政状況は?

 【回答】
「パンがないならケーキを召し上がればよいじゃない」
と,本当に彼の人が言ったのかどうかは知りませんが,Marie Antoinetteが,フランスの財政破綻の引き金の一つを引いたことは間違いのない話です.

 Magna Carta以来,それなりに議会が機能し,1688年以来,立憲君主制が確立された英国に比べ,絶対王制が長く続き,議会が全く召集されなかったフランスですが,財政面から見ると,非常に脆弱で,王の借金は屡々デフォルトを繰り返したために,その調達コストは非常に高くついています.

 初期に借金する際には,国王の税の管理を委ねているパリ市庁に永久年金を発行させ,長期資金を調達しました.
 これは,国王には金を貸したくないが,徴税権を握っているパリ市庁なら取りはぐれは無いだろうと言う理解で,資産家は金を融資します.
 これはリヨンでも同じ事をしていたりするのですが,結果的に,国王が利払いを拒否したり,担保としていた税を取上げたりして破綻し,結果的にこうした形の借金は無くなりました.

 で,前にも書いたように,フランスでも借金を増やしたほか,官職の売却とかを繰り返すようになります.
 しかし,戦争が終わった後は,本来こうした支出は無くなるはずなのですが,借金の利払いと官職に対する給与支払いで財政状況は好転せず,又も借金の利払い拒否,デフォルトの繰り返しを続けることになります.
 また,金利を受け取る場合は,債権者は法外な手数料を支払わなければならないという本末転倒な話もあったり.

 こうしてフランソワI世が1522年に20万リーブルを借りたのが積もり積もって,1642年のルイXIII世の時代には,債務残高は実に6億リーブルに達し,税収の7.5倍に及ぶことになりました.
 こんな状態では誰も国王に金を貸そうとはしません.
 1640~50年代では,商人の貸出金利は6%に対し,国王のそれは平均10%,時には25%に上ることさえ有りました.

 次のルイXIV世の時代に宰相の地位にあったリシュリュー,マザラン,コルベールの時代に,その借金を軽減するためにデフォルトを繰り返し,王権引き継ぎ時に,「先代の借金なんかシラネ!」として6億リーブルを2.5億リーブルに削減し,高金利で資金を調達したフーケ財務総監を罷免,裁判で厳罰に処し,罰金1.1億リーブルを没収,更に債権者の選別によるデフォルトで,1663年に3800万リーブルに削減したほか,リーブルのルイ貨の価値を引き下げて債務を圧縮し,法定金利を引き下げることで利払いの支払いも下げていきます.

 コルベールの時代,1678年には戦争もあって債務残高1億5700万リーブル,利払い費が1047万リーブルに落ち着き,利払い費は低利借換えもあって,800万リーブルに削減され,これは国家予算の15分の1にまで削減されました.

 ところが彼の死後,太陽王ルイは戦争を繰り返し,9年戦争とかスペイン王位継承戦争によって,再び戦費が必要となり,1689~1715年の間に22億リーブルの借金を拵えます.
 当然,デフォルトされては堪りません.
 そこで金利は,8.3%に達することになりました.
 債務は政府紙幣発行分8億リーブルを加え,最終的に1713年に税収18年分の30億リーブルに達します.

 この巨額債務を返済する為,アメリカ大陸のフランス領ルイジアナ開発で得た収益を借金の返済に充てようとしてみたりします.
 これはルイジアナでの金鉱開発とインドでの貿易を行う会社を設立するもので,これに徴税権,貨幣鋳造権を持たせたりして,投資家の夢を誘うものでした.
 しかし,当初は株価が鰻登りであったにも関わらず,蓋を開けてみると金鉱開発は失敗し,インド事業も思わしくなく,事業は破綻,株式は紙くず並になってしまいます.

 こうなると当然,いつもの通りデフォルトが繰り返されます.
 1715~70年の間,デフォルトは5回実施され,更に国王の借金に対する金利増は続いたり.
 ちなみに,このデフォルトに巻き込まれたのがヴォルテールで,彼は,お陰で20万リーブル損したそうな.

 とりあえず,こうした荒療治と増税でフランスは危機を脱し,債務の削減を行えるようになりました.

 最後の王となったルイXVI世は,この均衡状態を維持し,デフォルトは行わないことを勅令で宣言します.
 このため,財政再建路線を明確にし,王室経費を節約した上,債務削減に努めようとしますが,マリーアントワネットの暗躍(彼女は王室費用が削減されたのが不満だった)もあって,思うように財政再建は進まず,しかも,アメリカ独立戦争に巻き込まれて再び10億リーブルが借金となりました.

 しかし,デフォルトをしないと言う宣言をしてしまった以上,債務の削減をするには,更に借り入れを繰り返すか,売官,免税特権の廃止に踏み込むかと言うことが考えられたのですが,結果的に守旧派の抵抗で,これは出来ず,借金を返すために借金をすると言う自転車操業に陥ります.

 とは言え,当時のフランスは,GNP比で英国の倍以上,米国の6倍に及ぶ大国だったりするのですが,税収入は米国,英国より低かったりします.
 これで巨額な借金を抱えているのですから,何時デフォルトされるかと言う点で,市場は混乱していた上,世界的な景気後退に加え,英国との貿易協定で関税率が引き下げられ,工業生産が大打撃を受け,失業者は溢れ,労働者の賃金は引き下げられます.
 更に,食料価格は冷夏の影響で高騰,それに釣られて物価も騰貴,社会の不安定な状況から犯罪も増えて治安が悪化し,フランス王制は倒れることになりました.
shinjihi:

食べ終わったら、深夜でも礼儀正しくルームサービスのお盆をキチンと廊下に出して、とwwwwwwwwちょwwwwwww

shinjihi:

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maido3:

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